別子銅山 第一次泉屋道を歩く

平成30年4月21日 中の川〜勘場平中宿〜出合峠〜小箱越〜七曲り〜尾根分岐〜二ツ岳登山口
文章    :伊野の鈍亀
加筆・編集:エントツ山


プロローグ
別子銅山・第一次泉屋道とは


伊藤 玉男さんの著書 「あかがねの峰」 巻頭地図より 赤い点線が第一次泉屋道

第一次泉屋道の行程

「第一次泉屋道」は別子銅山から銅山川沿いを日浦〜弟地〜瀬場〜床鍋〜保土野〜芋野仲宿へ、そこから山道となり小箱
(おばこ)越〜出合峠〜勘場平中宿〜中の川〜関川〜天満浦を繋いだ荒銅の輸送路でした。


泉屋とは?

泉屋道の名前に出て来る「泉屋」とは住友家の屋号(平たく言えば商店名みたいなもの)で京都を中心に銅の商いや貿易
等をしていた豪商の屋号でした。

元々は平家由来の武士であった住友家が安土桃山時代に「住友政友」と言う人が僧侶(涅槃宗)から京都で書籍や薬を扱
う商人になったのが現在住友グループの始まりとされています。ただその時の屋号は「富士屋」でした。政友さんの姉婿
に「蘇我理右衛門」という銅の精錬技術(粗銅から銀を抽出する南蛮吹き)で勝負していた人物がおり、商売上の屋号に
泉屋」を使っておりました。

ではどうして住友家の屋号が泉屋となるのでしょうか? 政友さんの男子跡継ぎが居なくなり娘の養子として蘇我理右衛門
の息子さんを迎えます。この人が「住友友以」(とももち)と言われる2代目となります。この2代目もっちっちは優れた
人物で住友家の商業と蘇我家の銅師を合体させて大阪へ進出し「泉屋住友家」を名乗ります。これが住友家としての屋号
「泉屋」誕生となったわけです。

江戸時代になり4代目「友芳」(ともよし)の時代になると先代から住友吉左衛門を襲名して代々この名が受け継がれてい
く様です。何だか歌舞伎の名籍襲名の世界みたいですね。友芳さんは銅山経営に力を注ぎますが岡山の吉岡銅山や東北地方
の銅山はあまり経営状態・生産が芳しくありませんでした。そんな時に発見された別子銅山とその経営の話は友芳さんにと
って起死回生と言うべき朗報だったのです。

さて、ライバルを押しのけて幕府から開坑許可を取り付けたのですが、問題はその輸送路でした。
別子銅山の山元では掘り
出した鉱石をいくつかの行程を経て銅分97%の荒銅までに仕上げた後、大阪の最終精錬所へ運ばなくてはなりません。
今、ツガザクラが咲く銅山峰に立つと北には新居浜の海岸がすぐ近くに見えます。何故 銅山峰から土居の天満浦まで長い
山道を使って粗銅を運ばざるを得なかったのでしょうか?

その理由は当時の幕藩体制にあります。
別子銅山は銅山峰の南側に位置しそこは幕府領(天領)であった為、開坑許可は江
戸幕府から得たものの、それを大坂の最終精錬所・取引所へ海路で運ぶには新居浜(当時は新居郡)は使えなかったのです。
つまり銅山峰の北側は西条藩の領地であり、おまけに西条藩が管轄する立川銅山(当時は長谷坑)も稼業していたのでおい
それとは通行出来なかった様です。


ちなみに当時の西条藩は紀州徳川家の系譜、松平頼純が藩主だった為に幕府と言えども西条藩に対して政治的圧力を加える事
が困難で、その為泉屋に対して容易に輸送ルートの便宜を図る事が出来なかったと思われます。



伊藤玉男氏著  「あかがねの峰」 71ページ 別子開坑当時の采地分布

第一次泉屋道に関する参考引用

別子銅山では初期の荒銅運搬路は山元から一度銅山川(当時は山城川)に沿って下り、途中から海抜千二百五十メートルもある峠を越えて
今の土井町浦山川に下って天満の港までの凡そ八里(三十二キロメートル)の山坂道であった。」 ー『山村文化』第1号泉屋道と立川銅山
の道筋よりー


「別子山村から小箱越と出合越を越えて浦山川沿いに下り、天満の浦までの道を古くから天満道と申しておりましたが、泉屋が別子銅山を開
坑してからは、いつの間にか泉屋道と呼ぶようになり、元禄四年から十五年まで僅かに十一年ほどしか使わなかったのに、未だにその名で呼
ばれているのであります。」
  ー『山村文化』第5号銅の道伊藤玉男氏よりー

別子銅山初期の輸送を担った中持(仲持)「なかもち」について

「男衆が十二貫、四十五s、女衆が八貫、三十sを背負って歩く訳ですが、一日で通すことは勿論できない。そこで三区間に分けて運搬する
のですが、先程も話しましたように、千二百mもある高い峠を越さねばなりません、従って運搬路の状況を勘案した上で別子山村の芋野部落
と出合峠を越えた勘場平という処に中宿(中継所)を設けて継ぎ持ちをした訳であります。」    ー『山村文化』第五号銅の道よりー



当初、山元(別子銅山)から凡そ32kmから35kmの険しい山坂道を、二継で運んでいたのですが、銅の生産が増えるにつれ、三継にな
り、人と馬とで運んだそうです。幕府の銅増産政策により、元禄11年(1698年)には年間1521トンに達し、生産量は世界一になっ
たそうです
又、人手不足で山元や中宿に銅が停滞するような事もあったようでこの為運搬道の短縮の必要に迫られ、北側の新居浜浦への通行許可を再三
幕府に働きかけたが、やはり紀州徳川家への配慮などで政治的に決着するのが難しかったようです。

しかし再三の嘆願が実を結び、元禄15年(1702年)になって北側の新居浜浦への新道が許可され、第一次泉屋道は
開坑から11年間の
短い期間ではありましたが、地域の生活に多大な利益をもたらし銅の運搬路として役目を終えました。


住友家のルーツや別子銅山開坑の詳しい歴史的背景につきましては住友グループや他の専門研究者著書や曽我さんのHPなどに
お任せする事にして、私たちの目的は単純にその別子銅山初期の中持輸送ルートを歩く事です。名も無き人夫が別子銅山黎明
期を支えた山道を辿るロマンでしょうか。


別子銅山 第一次泉屋道を歩く
平成30年4月21日
中の川〜勘場平中宿〜出合峠〜小箱越〜七曲り〜尾根分岐〜二ツ岳登山

昨秋、エントツ山さんから「マーシーさんの提案で第一次泉屋道を歩く計画があるんだけど一緒に行きませんか」とのご連絡を戴きました。
このルートは以前から大変興味があったのですが曽我さんと善次郎さん達が数年前に歩かれて相当苦労されているのをHPで拝見し
ており二の足を踏んでいた所でしたので
有難いお誘いでした。
この年は雪が降り出して行く機会を逃してしまいした。年が明けて春先に出かける予定が又、遅めの降雪に遭い日延べとなったりしてやっと
平成30年4月21日に決行となりました。

車の配車は当日の時間セーブの為、前日肉淵登山口に一台をデポし、当日は4人で中の川へ行くと言う段取りで準備しました。

第一次泉屋道ルート図
 出合い峠からは軍用道路があるのでまどわれ易いので要注意

カシミールソフトを使用したGPSトラックログ図  伊予の鈍亀さん作成

行程1) 中の川登山口〜「別子渡瀬」渡渉地点  約1時間

 

いよいよ当日、浦山川の上流で川が二股に分かれる所の少し上、ワサビ谷に掛かる橋の袂から出発です。ワサビ谷の右岸を行くとすぐに石垣の
遺跡群が現れます。ここが中の川集落の跡地です。
その石垣の立派さに見とれながら集落の中の細道を抜けて行く。左手の斜面にも沢山の石垣
があって昔の生活が偲ばれる。。


  
浦山川の左又、ワサビ谷手前に車を駐車して橋に向かう      07時25分 第一次泉屋道の登山口は橋を渡った付け根からスタート

  
登山口付近の標識 ここは林道「中の川線」               植林地帯に入る 二手に分かれて道を探しながら移動

  
植林の荒れた踏み跡を辿る                         07時40分立派な石垣風景に出会う  ここが中の川集落跡地だろう

やがて、自然林の中に判り易い道が続き沢近くに行き当たる。沢の手前で左に上下二段に分かれた道があったので、下の道を下り気味に行くが、
段々と道が怪しくなって行きます。
どうやら沢を渡る地点を通りすぎたようでした。この少し下流側で沢が二股に分かれているのですが道はその沢
分岐付近を巻いているので知らぬ間に赤星山へ向かう支沢沿いへ入ってしまった様です。マーシーさんの「こっちですよ〜」の声に、沢を渡る事
が出来ました。


別子銅山研究家の曽我さんのブログを見て学習してきたつもりでしたが、最初から地形の罠にはまり支沢を登りかけていたのでした。やっぱり、し
ょっちゅう地図で位置確認しないと迷い易い所だと実感しました。 結局
この場所が別子渡瀬」と呼ばれる大きな沢渡渉点でした。沢の両岸
には気を付けて見ると赤テープが見られましたので結構こんな場所を歩かれる人がおられるのでしょうか。


  
尚も植林地帯の踏み跡を辿る                        植林が消え沢沿いの自然林に変わるが踏み跡の道は続く

  
     生活道に使われていた様な感じ                  大きな岩が点在する場所に出る

  
 沢に沿って更に踏み跡が続く                      08時05分 藪枝が垂れさがる小さな支沢を渡る

  
小沢を越えても踏み跡あり                         08時10分初めての分岐 ここは右下へ進む 
                                          丸い標識はタバコのポイ捨て防止のリスが描かれている

  
東側に鉄塔電線が2本走っているので巡視路になっているのだろうか  08時20分 渡渉地点を行き過ぎて引き返し沢を渡る


 登山口から約1時間で「別子渡瀬」と呼ばれる広い支沢渡渉地点を渡る  


行程2) 別子渡瀬〜勘場平中宿  約1時間45分 ここのルートがわかり辛い

別子渡瀬と思われる広目の川原を渡渉すると植林地帯に入る。最初は石垣が組まれた道がありそれに従った踏み跡を辿る。植林地帯で厄介なのは
作業道があちこち作られていてそれが従来の道を利用するなどしているのでルートがわかり辛い点にあります。ここは国土地理院から取り寄せた
明治時代の地図破線に従って尾根の裾を巻く様に沢沿いに踏み跡を辿る。

植林の中に道は続き、斜面の角度も次第にきつくなって、荒れた沢が次々に現れて踏み跡も薄くなってゆく。マーシーさんの姿が見えないと思っ
たら、道をアチコチ探している様子。エントツ山さんは今日は慎重に位置確認している。お二人の「アッチの様です」、「コッチみたいです」の
声を聞きながら斜面を這うように
薄い踏み跡を探してゆく。斜面は崩れている所が多いが、また、踏み跡が現れたりする。

そう言えば第一次泉屋道は江戸時代の初期に使われた道なんだからそんなにしっかり残っている訳ではないのだろう。でも伊藤玉男さんが「あか
がねの峰」で書いている様に別子山村と土居の天満を結ぶ道は「天満道」として綿やお茶、楮(こうぞ)その他山の幸を瀬戸内海の塩を得る為に
使われていたのだから明治時代までは人の往来もあった筈と思われる。

しかしながら一旦使われなくなった山道と言う物は荒れるに任せると、その後に行われた植林作業と相まって益々わかり辛くなるものだ。



  
 植林の中に石垣が組まれた道を進む              踏み跡を手分けして探しながら沢からあまり離れない様に歩く

  
   こっちに踏み跡が続いているぞ〜            ここにも踏み跡があるよ それってマーシーさんご用達の獣道?

  
ユキモチソウが結構咲いていて心が和む              沢部は概ねこの様な有様だ


渡渉地点から1時間程の所で荒れた沢にぶつかる。対岸は険しい崖の尾根で沢を渡る所がなさそうであった。そこで、ユキモチソウの咲く沢に沿っ
てとぎれとぎれに続く道を追って行くが、なかなかしかりした道に行き合わない。


すると、マーシーさんのルート探索、エントツ山さんの位置と方向確認で進むべき尾根に向かって登って行くと、植林の中に少し平らな所があり
石垣が水平に並んでいた。後で、調べて解った事だが、「店の別れ」という所らしかった。


  
むむっ これは道ですぞ  09時00分                       石垣が組まれているわ

  
浦山川を挟んだ向かいのお山は熊鷹山じゃ ♪ ででれこでん♪  これは第一次泉屋道に違いない

  
    しっかりとした石組だわい                      正面になだらかな丘の様な地形が見える

  
09時25分 石垣が組まれた平らな場所に着く             そこからはなだらかな傾斜が勘場平に向かって上っていく


勘場平中宿

店の別れと思われる丘から尾根の方向を定めてなだらかな植林帯を登って行くと、やがて広い平坦な場所に着いた。杉が林立していて薄暗い。
ここがあの
勘場平』でしょうか? 勘場という言葉は現在ではあまり耳にしませんが、勘定場を意味して役所や商店の中心的な役割を担っ
場所や建物の事でしょう。住友家の場合、ここに直営所として人員を配置し恐らく銅の運搬を管理する役人も詰めてたのではないでしょうか。
一方、中宿は読んで字の如く中継所と解釈出来、別子銅山から天満浦まで4か所の中宿が存在していたとの事です。

知らぬ間にどんどん奥に進んでいるマーシーさんの居る所まで行ってみると、石垣があって人工的に均された地形だと解りました。広く静かな
勘場平を歩いていると往時の賑やかさが映画のシーンの様に思い起されます。

泉屋道は銅の道でもあり、同時に生活物資の流通路でもあった訳ですから、この勘場平中宿には炭倉や銅貯蔵倉、お店などがあって、泉屋の
事務員さん、中持ちさんやお役人がいて、引継ぎと休息の場所だったのでしょう。
我々も、一休み。おやつタイムとしました。


  
なだらかな尾根部に道が続く                       ケルンが嫌いだった筈のマーシーさんが石を置いている

  
   掘れ込んだ道は荒れているので横手を歩く            おっ 石垣が現れた

  
  勘場平に着いた雰囲気濃厚〜〜♪                   勘場平には夥(おびただ)しい程の杉が植えられていた

 
 植林された勘場平を歩くが特に標識や建物跡などは見えない   南側には小高い場所があり西側は人工斜面の様な地形だった


    勘場平のヌタ場にダイビングする二匹のイノシシ

行程3) 勘場平中宿〜出合峠  約50分

勘場中宿を過ぎると植林の中に延びる道は段々と堀り割れてくる。天満道として踏まれ、荒銅運搬の道として踏まれた道は長い年月の内に堀り
割れ、往時の人の往来を感じさせる道になっている。堀り割れた道を辿っていくと、やがて、なだらかで広い自然林に着く。このいい感じの場
所でまた一休み。
もう峠は近い。気分も軽くなり、「中持道って、こんな感じいい道だったんだ〜」などと沢沿いの荒れた斜面と対照的な風景
をゆっくりと楽しむ。

峠が近くなると東側にある丸山ピークを巻いて稜線へ出る杉の植林帯になり、あっけなく峠に到着! そこには標識もなく、展望もなく、ひっ
そりとした縦走路の鞍部だった。そのすぐ南に平坦な場所には泉屋から住友と使われた井桁マークが大きく刻まれたの石がデンと据えられてお
り、近くのヤブ下にも数字の彫られた石もありました。これらの石が「出合峠」の唯一の証であるかのようでした。

  
10時15分勘場平中宿を出発 道は掘れ込んでいる       植林帯の向こうが明るいのは自然林に変わるのか?


 第一次泉屋道も穏やかな地形の場所では良い状態で分かり易い おっ 中持さんか? いや マーシーさんだった

  
  やはり昔はこんな自然林の中に続く道だったんでしょう  10時35分あまりにも気持ちが良いので休憩して行動食をとる

  
   トリカブトがワンサカ生えている               丸山のピークを巻いて道は続く

  
 丸山の北面は植林地帯だ   峠は近い            11時05分 出合峠に着いた感じ

  
 デカい井桁マークが刻まれた石がある            その傍にも数字が刻まれた石がある 出合い系の標識は無い


  マーシーさんの土地勘と伊予の鈍亀さんが用意した明治時代の地図を頼りにここまで歩いて来た 

行程4)寄り道 出合峠〜丸山(三角点)〜出合峠  約25分

さて、出合峠で位置確認の後、近くに三角点があるのをみすみす見逃す訳はありません。4人とも赤星山への縦走時にこの三角点「丸山」は通過
しているのですが、当時はそんなに三角点にこだわりは無くさらっと流したピークだったのです。少し藪いた尾根を伝って北側のピークを目指し
ます。古道歩きでさえも近くに三角点ピークがあるとそこを踏まないで立ち去る事の出来ないビョーキの様です。

急な傾斜を喘いでピークの先にある四等三角点「丸山」 標高1,157.35mを踏みます。帰りは藪を少し避けて植林帯の縁を下って11時
35分出合峠に帰ります。

  
 出合峠から北側へ尾根を進む                 急登を喘ぐと比較的平らなピークとなる

  
  コバイモも咲いていた                    冬枯れの様な景色 縦走路のテープが見られた


   11時20分 四等三角点「丸山」を踏む  帰りは藪を避けて少し右手の植林帯を伝って下った


行程5)出合峠〜「三角点峨蔵越」寄り道〜小箱(おばこ)越 約1時間50分

出合峠からほんの少し行った所に分岐がある。ここは注意が必要な分岐である。真っすぐに続く広めの道は「軍用道路」。その右手側、尾根沿
いに延びる細い道が第一次泉屋道である。殆どの部分が尾根のすぐ下にあって、尾根を巻いたり尾根に上がったりしながら小箱越の近くまで続
いていた。


軍用道路について

ー参考引用ー
「峠から小箱越方面に二百米位の所に、番所跡の石垣が残されている。更に横掛け道を一時間足らずで、小箱越着く。泉屋道はここから他領津の
尾根を経て、七曲りと呼ばれた中持ち泣かせの急坂を下り、大木谷を渡る所まではトレース出来るが、それから先の小箱別れまでは現在通行不能
である。別子山側から小箱越に登るには、峨蔵林道終点から軍用道路を使って他領津に出るのが、一般的であろう。国土地理院発行の地図にある
小箱越と峨蔵越を結ぶ道は、廃道である。」    ー『山村文化』第5巻別子銅山の遺跡3出合峠界隈よりー


注:第一次泉屋道を辿るのに注意すべき事は『軍用道路』と『第一次泉屋道』を間違えてはいけないという事。

今の国土地理院の地形図には、肉淵登山口の上から他領津の尾根まで破線の道があり、おまけに、他領津の尾根の手前にはちょこっと『七曲り道』
風の破線まで書かれているので、この道を第一次泉屋道と勘違いし易い。しかし、この道は別子銅山研究家の曽我さんのブログに出ている様に戦
時中に軍隊によって建設された‘軍用道路’なのです。

現在国土地理院の地形図にある破線のルートはこの軍用道路に沿って付けられている様で、峨蔵登山口から小箱越を越えて出合峠までこの破線は続
いています。以前、私達やエントツ山さん、マーシーさんも以前この破線に騙されて第一次泉屋道を歩いたつもりになっていました。


出合峠から小箱峠、更に肉淵登山道付近までの第一次泉屋道と軍用道の比較図


カシミールソフトを使用したGPSトラックログ図 (加工図)

出合峠の先で道が分岐する所で昼食休憩をとる。朝07時25分に出発して別子渡瀬の渡渉後勘場平中宿までの急斜面の道を明治時代の地図破線
になるべく沿って踏み跡を辿って来た。沢沿いで不明な場所もあったがここまで順調に歩く事が出来て満足感がある。マーシーさんも今日は昼食
を忘れていない様だし、エントツ山さんは大阪のおばちゃんが着る様なライオン柄のTシャツで若ぶっている。

ここからの第一次泉屋道は私たち鈍亀の歩いた経験が生きて来る場所だ。今まで訳も分からずこの辺りを歩き回ってきたが今日4人で歩くルート
が明確な目的を持った山行でありスッキリした気分になる。12時頃休憩を終えて出発する。
出合峠から南に延びる第一次泉屋道は尾根を少しだけ外して出来るだけ高低差が無い様に工夫されて延びて行く。どんななだらかそうに見える尾
根にも凹凸があり重たい荒銅を背負った中持さんにとって合理的な巻道と感心する。

12時10分小さな分岐があり、左手には軍用道路へ向かって道が下がっている。恐らくこれが現在の地形図にある破線だろう。ここは尾根に近
い右手の細道を進む。急斜面の上にアケボノツツジが綺麗に咲いている場所がありアケボノフリークのエントツ山さんが真っ先に急斜面を這い上
がって行く。私たちも今年初めて見る豪華なピンクを間近で見たくてそれに続く。マーシーさんはクールに下で待機している様だ。

中持道は尾根のコル部に差し掛かると一旦尾根に出て次のピークが近づくと左(東側)からそれを巻く。こんな事を2〜3度繰り返して進むと
12時55分「二ツ岳分岐」の標識に出合った。

  
   出合峠の外れで昼食〜                   12時00分南に向かって進む

  
 昔はこんな自然林の道だったのね                 今は植林された場所が多くなった

  
12時10分 分岐があり右手に進む              左手に下る小道は軍用道路へ繋がるのだろう

  
  道端のスミレにも目が行く                斜面を這い上がってアケボノツツジを近くで眺める

  
12時20分 植林帯を尾根に出る                北面にはタムシバが咲いていた

  
又 トラバース路になる スペースが狭いが道はある       アケボノツツジが咲いていると気持ちがハイになる

  
12時30分 岩場を抜けて尾根に出る             この辺りは広く掘れ込んだ道として残っている

  
  これぞ泉屋道〜〜                          又尾根に出る


12時55分 尾根に三叉路標識が立っている  直進が羽根鶴山方面、右に曲がると二ツ岳へ、歩いて来た方向が赤星山となっている


ちょっと寄り道 四等三角点「峨蔵(がぞう)越」(標高1,307.32m) へ

12時55分分岐標識から二ツ岳方面へ進み四等三角点「峨蔵越」に挨拶する。近くに三角点があると気になり寄り道をする習性は4人とも同
じなんです。中持道から外れていわゆる縦走路を二ツ岳方面へ進みます。境界割り出しの赤いプラスチック板がぶら下がっていたり境界石柱があ
ったりして以前のスズタケの酷い藪の面影はありません。

13時05分枯れたスズタケ道にモダンな三角点がありました。エントツ山さんはアケボノを見に更に下って行き亀吉も続く。年寄組の二人、意
外と元気です!(うるせ〜〜 by エントツ山)マーシーさんは「峨蔵越まで行こうや」というエントツ山さんの誘いが怖くて下には一歩も下
りませんでした。三角点を踏んだことで心置きなく13時15分標識のある分岐迄引き返し小箱越方面に行く事にします。

  
縦走路には境界見出標のプレートが掛かっています     境界割り出し作業が行われると石標にも赤いペンキが塗られている事が多い

  
 アケボノツツジが縦走尾根に咲いている             13時05分 四等三角点「峨蔵越」を踏む


三角点から少し下がると二ツ岳がデ〜〜ンと現れます  五月にはここから権現越まで縦走する予定です その時のアケボノが楽しみ〜

  
枯れたスズタケの縦走路を引き返す               13時15分 分岐標識まで帰る


マーシーさんはこの辺りの尾根を未だ歩いていないと言う事で先ほどから姿が見えない。分岐から小箱越への道は広く陽当たりも良く、最高に
いい泉屋道! 中持さんにもさぞかし歩き易かった事だろう。


小箱(おばこ)越

小箱越の手前にも平坦な感じのいい場所がある。尾根の方へ行ったマーシーさんを待ってここで一休みする。以前エントツ山さんとマーシーさ
んが歩いた時には広々としたこの辺りにヤマナシの実が沢山落ちていたとの事。このヤマナシ広場から少し笹薮が現れて下り坂となる。小箱越
はうっかりすると通り過ぎてしまいそうな場所で、標識も落ちていた。小箱(おばこ)越は別子銅山にとって天満へと越す大切な峠だったはず
ですが、今では忘れ去られようとしているのでしょうか。


  
縦走路分岐からも快適な道が続く                     植林帯との境界沿いに道がある

  
あまり人が歩かないので多少薮いている所もあります         でも春先はこんな感じの良いセラピーロードです


  尾根との合流点「ヤマナシ広場」 こんな場所でテント泊したいものだ

  
 少し笹薮が出てきます                           小箱越から東へ向かって道が延びている ハネズルへの道


 13時50分 本日の最終峠「小箱(おばこ)越」に到着  後はほぼ下るだけ


小箱越〜「三角点・大木」〜七曲り〜尾根分岐〜肉淵登山口  約1時間50分  

13時55分小箱越からハネヅル山への尾根筋から別れて南へ下る。小箱越の西側尾根ピークから南に銅山川へと続く尾根は他領津(たりょうず)
尾根と呼ばれていますが、第一次泉屋道はこの他領津の尾根沿いに七曲りまで下ります。最初小箱越から大きく東側に振るので一体何処へ行くの
やら不安ですが、やがてこの道は西側へ振り他領津尾根の東側にへばり付く様に道がついています。

14時20分道が大きく尾根を逸れて東側の谷へと向かうのでこの場所から歩き易そうな尾根を下る事にする。しかしこの左へ逸れる道は下側の
七曲り分岐場所で尾根と出合った。尾根歩きが大好きな我々には少し我慢が足りなかった様だ。つまり尾根から逸れる道をそのまま行けば、標高
約1000mのところで尾根を越して七曲りの道へと続いていたのでした。


  
最初は谷部の左側へ進むので不安だが、マーシーさんは      やがて谷の右側、他領津(たりょうず)尾根を右手にして道が続く
土地勘があるので自信を持って先導する

  
 多少荒れている場所があるが概ね歩きやすい道だ           左手に植林帯が現れる

  
古い掘れ込んだ道がすぐ横に並んでいる                14時20分道が左へ大きく逸れるので尾根道を進む事にした 

  
どうも尾根道は第一次泉屋道では無かった様だ           概ね歩きやすい尾根、七曲り分岐を見逃さない様に下る

  
       14時30分 道が左手から尾根を横切る          斥侯マーシーさんが七曲りへの道を確認する

四等三角点 「大木」 1,006.29m 

14時30分七曲り分岐を確認の後、例によって近場の三角点を踏みたがるビョーキの為、七曲り分岐から一旦四等三角点「大木」まで下って引き
返し、再び七曲利分岐へと引き返す。七曲り分岐から中持道は西側の大木谷を渡って銅山川添いの芋野中宿へと続きます。随分前にこのルートは
私たちが下から歩いて来た記憶が蘇ってきました。

  
   尾根を三角点へ向かって少し下る             14時36分 四等三角点「大木」を踏む


  四等三角点「大木」 標高1,006.29m

七曲りから大木谷へ

他領津(たりょうず)尾根から七曲りへの分岐付近は少し下、り口がわかり難いのですが一旦その道に入るとジグザグを切った踏み跡がありマー
シーさんが先に行って「こっちですよ〜」と叫んでいます。七曲りというけれど小さな曲がりも含めると九曲がり程ありました。

谷に近づくと少しザレてきますが、15時05分眼下に綺麗な沢が見えて来る。大木谷の淵に到着したのだ。ここはほんとにいい所で、休憩には
もってこいの場所でした。



七曲り分岐  少しわかり難い場所なのでここに新たにテープを付ける  久しぶりの懐かしい場所で記念撮影をする伊予の鈍亀さん

  
   七曲りを下る                                1,2,3,4,5  ・・・ あれ? 何回曲がったかなあ

  
  沢に近づくと少しガレてくる                         15時05分 大木谷の淵に出る


  美しい大木谷  渡渉部の下流側

  
   大木谷 上流部                              大木谷 渡渉部

休憩の後、大木谷の右岸を辿る道を進む。右手の斜面には大きな岩があり所々で道を塞ぐが明らかに人の手によって乗り越え易くする為に石が
積まれている。これが江戸時代の初期からそのまま残っているとは思えないが、古くから別子山村から小箱越、出合峠を越えて土居の天満とを
結んだ年貢の道、交易の道としての天満道、そして別子銅山の中持道であると信じるに足る程の雰囲気としっかりと踏まれた道であります。

15時25分車をデポ下肉淵登山口へ至る支尾根に着いた。この急な支尾根を這い上がると軍用道路に出て少し歩くと肉淵登山口の林道終点に
着いた。

これで、中ノ川から肉淵登山口下までの第一次泉屋道を歩けたことになりました。此処より先の芋野までの泉屋道は部分的には残っているが大
部分が不明となっているらしい。


  
大木谷を越えて沢沿いに道が続く                     岩場には石組で道が作られていた

  
少しガレ気味の場所もあるが道ははっきりしている           岩の段差に置かれた石組


           これぞ天満道、これぞ第一次泉屋道じゃおまへんか

  
  いや〜  立派な道じゃのうし                      15時25分 支尾根分岐に着く

  
  急斜面の支尾根を這い上がる                     マーシー 余裕〜〜

  
概してこの支尾根も歩き易い                        15時35分 軍用道路に出る

  
肉淵登山口から続く軍用道路                        15時40分 肉淵登山口の車に帰り付


今日の行程の内、南半分は数年前に集中して何度か訪れる中で、偶然ではあったけれど七曲りの道も歩く事が出来たし、軍用道路についても知る
ことが出来ました。が、北側の泉屋道については山深い所なので、二人だけで行くのは躊躇しておりました。今回、エントツ山さんとマーシー
さんのお陰で長年の懸案事項が一気に解決してとても満足です。

私たちが今まで歩いて来たの一連の別子銅山遺跡探しに関する山歩きは、エントツ山さんのHPにある本の紹介で伊藤玉男さんの「赤石の四季」
や「あかがねの峰」などの本を知ったのがきっかけでした。二人の生まれ育った新居浜が発展していったルーツである別子銅山と言う物に興味
を持ち、『山村文化』に嵌って曽我さんのHPに記述されている銅山遺構などを訪ね歩いて参りました。


まだまだ訪れたい遺跡もありますので、もう少しこのマニアックで浮世離れした山歩きにお付き合い戴ければ、これ以上嬉しいことはありません。

エントツ山の編集後記
9年前にマーシーさん、ガクちゃんと出合峠〜小箱越〜肉淵登山口まで歩いたけど、このルートは第一次泉屋道ではなく軍用道路を歩いていた事が
分かった。今回伊予の鈍亀さんが取り寄せた明治時代の地形図やお二人の研究と実践経験に基づいてほぼ第一次泉屋道を歩けたと思う。
軍用道路の背景や芋野までの続きルートなど少しの課題が残されておりますが、伊予の鈍亀さん達のお陰で意義深い歩きが出来て満足でした。

第一次泉屋道については中の川から肉淵登山口まで一貫して歩いた記録が無いと思われるので貴重なログ図を提供出来たと感じます。

尚、芋野から小箱越までのルートに関しては曽我孝広さんの記録に詳しく検証されております   曽我さんの芋野から小箱越は    ここ   



   
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