平成24年12月25日 箸蔵街道 (JR箸蔵駅〜箸蔵寺〜二軒茶屋〜JR財田駅) 約6時間
プロローグ
JR土讃線を利用した「箸蔵街道(はしくらかいどう)」歩き 6時間の旅
箸蔵街道とは讃岐「金毘羅さん」とその奥の院である「箸蔵寺」を結ぶ街道として知られている。昔、まだ鉄道や道路が整備されていなかった
頃、讃岐西部地区と阿波(池田)を結ぶ流通道であっただろうし、徳島の山間部で飼われていた牛を香川の農村に借耕牛(かりこうし)として
貸し出した通り道の一つだとも言われている。
現在ではJR讃岐財田駅とJR箸蔵駅を結ぶ道が「箸蔵街道」として整備されている
何故 お宮さんの奥の院がお寺さんなのか??
金毘羅宮(神社)の奥の院が箸蔵寺(お寺)と言うのは妙な話ではあるが、ここが日本の宗教観が良く現れている見本と言える。古来日本人
の中ではぐくまれてきた自然崇拝色の強い神道と大陸から入ってきた仏教が支配者によって融合されてきた長い歴史がある。
つまり、仏教主流で日本を治めようとする古代政権下では「本地垂迹」(ほんじすいじゃく)と言って日本の神さんというもんはそもそも色んな
仏さんが神さんの形として仮に現れたもんじゃという融合アイデアで、神仏習合とか神仏混交と言われている。西洋では「オーマイゴッド」と嘆
く相手が一つで済むが、日本では「神も仏もあるものか」と二つに対して嘆く事になる。
一方には八百万(やおよろず)の神々がおり、他方にはヒンズー教源流の仏も含めて面倒な程の仏さんがいる。これをお互いご丁寧に結びつ
ける作業も行われていた様だ。
元々「金毘羅」自体ガンジス川に住むワニの化身=(クンピーラ)で仏教の守護神「宮毘羅(くびら)大将の事で仏教色が強いヒンズー教の神
であるらしい。明治維新後廃仏毀釈政策で金刀比羅宮の主神は大物主神になっている。大物主は大国主と同一だとされたり違う意見もあり
ようわからん。
つまり、日本の宗教は突き詰めると何が何だかさっぱりわからなくなるんで、あまり深く追求しない事にしよう。我々は鳥居や狛犬があれば
神社で、一休さんの人形や線香、ロウソクがあればお寺という程度の認識だろう。
明治以降に生まれた我々は「こんぴらさん」をず〜〜と昔から神社と思っていたが実は明治維新の前には真言宗の「像頭山松尾寺金光院」と
言うお寺だった訳で、前述の廃仏毀釈政策で純粋(?)な神社金刀比羅宮」として誕生したのである。こんな現象は明治維新の混乱で日本
中どこにでも起こっており、石鎚神社でも前神寺から分離したのと同様である。
一方箸蔵寺のご本尊は「金毘羅大権現」であり、何でも箸蔵山に住む天狗がこんぴらさんのお祭りに使われた箸を箸蔵山まで持って来たと
言う言い伝えからも2つの結びつきが濃い。では何故箸蔵寺が明治維新の廃仏毀釈政策時にもお寺の中に神社を包括した異例の「神仏混合」
形態を守り得たのか?という疑問がある。 これに関してはどうも箸蔵寺が「真言宗御室派(おむろは)」に属していたのと深いかかわりがある
らしい。
真言宗御室派(京都の仁和寺)のトップが歴代皇室出身で引き継がれており、明治政府もこの点で箸蔵寺の神社化には相当遠慮があっての
事で云わば目をつむったと言う説が有力である。
色々日本の宗教の歴史は興味が尽きないが、この際あまり深く考えないで阿波と讃岐を結ぶ文化・宗教・交易の道、箸蔵街道を歩いてみた。
この地図の作成に当たっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)を使用したものである
カシミールソフトを使用したGPSトラックログ図 箸蔵街道
JR財田駅からJR箸蔵駅へ電車で移動
東京の修一兄が街道歩きをしており、新居浜に帰省した際へんろ歩きなどを一緒にしているのだが、冬場に歩ける旧道としてこの箸蔵街道
がうってつけと思い案内する事にした。
JR財田駅と箸蔵駅は土讃線の普通が止まる駅なのだが非常に便数が少ない。時刻表を調べるとJR財田駅09時38分発、09時57分箸蔵
駅着という便があったのでこれを利用した。
私が高松から、修一兄は新居浜からそれぞれ出発してJR財田駅に09時15分頃集合してタブの木などを見ながら時間待ちをして2番ホーム
で列車を待つ。電車が来ると何と1番ホームへ入ったのであわてて運転手に合図を送りながら駅ホームの遮断機を越えてワンマン列車に乗り
込む。
途中「坪尻駅」というマニアには有名な駅に入る。この坪尻駅の本線上には駅が無く、一旦迂回線に入り停止した後運転手がやおら後部に
移動して逆方向に発進して坪尻駅の引き込み線駅に入る。駅や列車内にはカメラを持った鉄道マニアが数人居て今では珍しいスイッチバッ
ク式の駅を撮っていた。
JR財田駅で修一兄と待ち合わせ (無人駅) 向かいの2番ホームで列車を待つが電車は1番ホームに来た
電車は坪尻で一旦引込み線へ入る 運転手が後ろ側へ移動して反対方向へ進む
坪尻駅へ(反対側の引込み線)へ到着 右上が本線 坪尻駅で停車する列車 (無人駅)
箸蔵駅に到着 JR土讃線「箸蔵駅」 (無人駅)
10時前にJR箸蔵駅に着く。下車したのは我々だけだった。駅前には箸蔵寺への標識が無いのでどちらに行ったら良いのかわからない。手前
の山がどうやら箸蔵山みたいなので駅から出て右へ歩く。国道筋に出るとさすがに交通量が多い。しばらく歩くと右手に箸蔵寺の標識を発見
する。
駅から右へ出て国道筋を少し歩く 箸蔵寺への小さな標識があったので右折して山へと向かう
ミカン畑の間を抜けると舗装路は切れて遍路道の雰囲気となり、お墓がある山際から森の中を遍路道が続き所々にお地蔵さんが祀られていた。
道端に箸蔵寺まで1.8km、雲辺寺まで19kmの大きな古い標識がある。車も通れるだろう広いザレた道を進んでいくと10時16分舗装道路に
交差して正面に続く石段を上り遍路道が延びている。
箸蔵寺まで1.8kmの標識 舗装堂をを横切り石段を上る
更に進むと右手に広場があり何か学校施設の様な建物が立っている。すると又舗装道路と交差して益々森の中に進んで行く。10時30分九丁と
記された丁石が埋もれている場所を通過すると前方に高灯篭(たかとうろう)の立派な建物が見えた。江戸時代に刻みタバコを吉野川を利用して
の水運が盛んで船から灯台として目印にされてた様に、この辺りはカザミノ丘という見晴らし丘なのだが、今はロープウェイの大きい支柱やケーブ
ルなどがあり風情が無い。
ここから上を眺めると石段があり立派な仁王門が立っており箸蔵寺の領域に入ったらしい。石段の横には野口雨情の歌碑があるが大きな岩に彫
られた文字は美しく崩し過ぎて良く読めない。見た目が美しく崩した文字ってのは凡人が読むには難解過ぎて何回見ても読めない。
二つ目の歩道を越える 森の中に入っていく
箸蔵寺(はしくらじ)
明治17年に灯台として建てられ利用されたと言う高灯篭 野口雨情が作ったはしくら小唄の一説
「見たか蔵谷 千畳敷や 藤の根元の笠の水」・・・読めん!
10時40分石段を上り由緒ありそうな仁王門を頭の上にあるデカいわらじを見ながら潜る。ここを過ぎれば「箸蔵山」の山号が書かれた鳥居
があり水平の広い参道が続く。その突き当りに赤橋があり両側に烏天狗が控えている。この沢に架かった橋=梢橋を渡ると鳥居の山号も「金
毘羅大権現」となり聖域に入る。
仁王門を潜ると箸蔵寺の寺域となる 大草鞋(わらじ)が天井に吊るされている
烏天狗 こちらはクチバシがある こちらはフツーの天狗様か
赤い梢(こずえ)橋を渡る 鳥居の山号が「金毘羅大権現」となる
長い石段を上がると見覚えのある納経所が角にあり、正面に護摩殿が小振りなのだがどっしりとした姿を現す。お寺やお宮さんは一体何処
で本気を出してお祈りをしたらいいのかようわからん。護摩殿でお参りして右手にあったボケ封じ地蔵さんにも兄弟揃って頭を下げる。
次に相当長い石段が現れ、右手の鐘楼堂を見学した後、恐らく最後になるであろう石段を上がる。この鐘楼堂はすこし変わっており、裏手の
通路から二階に上がり普段撞いた事の無い様な恰好で鐘を撞く事になる。
結構石段が多いなあ おっ ここは見覚えがあるぞ 正面が護摩殿
少し変わった形の鐘楼堂 う〜〜ん これが最後の長〜い石段だ
長い石段を上りきると11時02分 箸蔵寺のご本尊「金毘羅大権現」の本殿がある。ここは相当広い平地となっており左手に雪を被った
八十八ヵ所御砂踏場というのがある。箸蔵寺はいままで2度ロープウェイで来た事があり、箸蔵街道への入り口もその時に調べていた。
箸蔵寺の境内はこんな風になっている (箸蔵寺のHPより掲載) この図の左上が箸蔵街道のスタート地点だ
いよいよ箸蔵街道へ
11時10分箸蔵寺の端っこに「遍路道」「箸蔵街道」の標識がありいよいよ讃岐に向かっての街道歩きが始まる。最初は山際に沿って広い
未舗装の道路を進む。10分程荒れた道を進むと左手からの少しマシな道に合流したが結構オフロードな状態である。同じ景色の道を退屈
しながら歩いていると11時46分初めて二十三丁石の石柱が現れる。あまりにも単調な道だけにこんな丁石でもなければ仕方がない。
このお砂場の突き当りが箸蔵街道の入り口となる 境内の境目に遍路道の標識がある
少々荒れ気味の山道 広いオフロード道 11時46分 初めて丁石が現れる
丁石が現れて10分すると「一升水」分岐があり、山道が右手から下りてきている。やはりここは尾根沿いに続く道があったのだろう。折角
だから300m程後戻りして一升水を訪問して見る。5分程で「龍王社」の山号がかかった鳥居があり一升水の由来説明看板がある。
この鳥居の横に二十一丁石がある。
すると先ほどの二十三丁石って一体どうなってるんじゃろ。箸蔵寺に近い方が番号が増えている? 道から40m入った所に小さな水場が
ある。中をみるがほとんど水が流れていない。どこの水場も現在は水が乏しくなっている。これは気候の違いもあるが植林が増えた事と無
関係では無い様な気がする。弘法大師が開かれたというこの水場は猪ノ鼻トンネルやJRが開通するまで旅人の貴重な水場として役に立
っていたとの事だ。
水場の近くに休憩所があったのでそこで簡素な昼食タイムとする。兄弟揃って山歩き中の食事はおにぎりかパンとペットボトルのお茶だけ
で済ませる。
11時58分 一升水分岐に着く 一升水の入口 二十一丁石と鳥居が並んでいる
一升水はここだ どう見ても水場の環境ではおまへん 雪道を元の分岐に引き返す
先ほどの分岐まで引き返し更に広い道を進むと「増川笑楽耕」への分岐看板があった。何の施設か調べると増川小学校跡地を利用して
地元のボランティアが農山村体験をする施設らしい。山菜採り、たけのこ掘りから始まってうどんやそば打ち体験、田植え、稲刈り体験等
ここにはコッテージもあってホタルも見れるという場所らしい
前方に廃屋が見えたので修一兄に近くに三角点があるのでここで待ってて欲しいと言うと一緒に行くとの事で藪尾根を少し逆方向に進み
四等三角点「馬除」を踏む。藪尾根を分岐まで又引き換えし馬除集落の廃屋横を通る。街道歩き、古道歩き、山歩きをしているとこの様な
廃屋が沢山あり往時の生活を偲ばせる。
12時35分 増川笑楽耕への分岐を通過 前方に馬除集落跡が見えたので三角点へ尾根を引き返す
四等三角点「馬除」 「こんなの見つけて何が楽しいの?」
12時57分 馬除集落跡を通る 相当痛んでいるが往時の街道の様子を偲ばせる
この廃屋を過ぎると直ぐに三叉路分岐が現れた。舗装道路が右と左へ分かれて下がっており、正面は尾根部となっている。地図で確認する
と箸蔵街道は右側の歩道道路からトラバース道の破線が付いている。しかし三角点は正面の尾根を鉄塔まで進み、そこから西へ進んだ尾根
上にある。ここの街道歩きは単調なので修一兄の同意を得て三等三角点「増川」を経由して北側の街道へ合流する事にした。
この地図の作成に当たっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)を使用したものである
カシミールソフトを使用したGPSトラックログ
馬除から二軒茶屋の間は丁度猪ノ鼻トンネルの近くで、地形がちょっと複雑である。13時02分三叉路から鉄塔保線路を使って鉄塔まで行き、
そこから西側に尾根を進み13時23分三角点「増川」を確認。そこから真北に尾根を進んで13時26分街道に復帰する。
三叉路へ出る 鉄塔保線路に入る
鉄塔までは保線路がある 鉄塔から西へ尾根を進む
三等三角点「増川」 一人ならこんな場所に来ないよ 13時25分 前方に四国の道標識が見える
四国の道は財田方面から延びて来てこの分岐から猪ノ鼻峠方面へ向かう。と言う事はここから進む道は「四国の道」って事か。真っ直ぐに
延びた植林と赤松や雑木の混在する整備された道が北に延びて行く。10分程で「いぼ地蔵」の説明板があった。元々「かしの木地蔵」と呼
ばれて近くにある二軒茶屋の氏神様だったらしいがこのお地蔵さんを拝むとイボが治ったという噂が広がってこんな名前になってしまった。
お地蔵さんにしたら迷惑な話やで。
そこからしばらく進むと箸蔵寺からの道=箸蔵街道に合流。つまり「箸蔵街道」と「四国の道」は全く同じ道では無いって事だった。そしてこの
分岐が四国の道と箸蔵街道の別れ道だったと言う事だ。
ここからは箸蔵街道=四国の道を歩く事になり13時41分二軒茶屋に到着し、休憩所で持って来たポットでコーヒーを修一兄にお接待する。
まともな道に出てホッとする (四国の道に合流) いぼ地蔵の説明板
かしの木地蔵 別名 いぼ地蔵 13時38分 箸蔵街道遍路道に合流
13時41分 二軒茶屋に到着 ここで休憩する
二軒茶屋の北はずれに四十九丁石があるからここが箸蔵街道のほぼ中間地点である。そこを過ぎると情緒溢れた竹林に囲まれた細尾根に
なり元気が出る。
二軒茶屋に立つ四十九丁石 山道とは思えない
ここからも快適な尾根道で、やはり道があるって事はとても効率が良く歩く事が出来る。14時22分石仏がある峠に到着。どうもここが箸蔵
街道の最高点らしい。街道から少し外れて石仏にお参りして元に帰る。この付近から箸蔵街道は尾根の左側をトラバースしていくのだが、県境
尾根が右手に延びておりそのピークに四等三角点「二軒茶屋」がある。折角だから少し県境尾根に入ってこの三角点を踏んで引き返す。
この地図の作成に当たっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)を使用したものである
カシミールソフトを使用したGPSトラックログ図
14時27分 峠の石地蔵分岐 ここに住むタヌキが旅人を化かした話が伝わる
県境尾根ピークをトラバースして箸蔵街道は続く ここは県境尾根の四等三角点「二軒茶屋」を踏む
県境尾根から箸蔵街道へ引き返して峠部から左へ下っていくとすぐに右手の岩の上に江戸時代から「薬師如来像」が旅人を見続けていた。
すぐ下手に六十八丁石がありそれを過ぎると休憩所や展望所がある。この辺りの四国の道標識には讃岐財田まで3.4kmとあった。展望所
へ進んでみるが残念ながら曇天の為あまり讃岐の景色は見る事が出来なかった。
岩の上から旅人を見守る薬師如来 何や この綺麗な道は
14時58分 展望休憩所 う〜〜ん 霞んで何処かようわからん
展望休憩所より街道に帰り快適な道を下ると15時07分次の三角点がある尾根への分岐に到着(分岐と言っても尾根道がある訳ではないが)
折角だからと修一兄もすでに諦めている様で素直に後に付いてくる。15時15分四等三角点「轟ノ滝」に到着。ここに▽爺さんの私標があった。
これまで同行者の事を考えて来た道を引き返してきたが、もう面倒になって直接斜面を箸蔵街道に下がると10分程で合流した。
左は箸蔵街道、正面が三角点へ誘う尾根 四等三角点「轟ノ滝」 この由来は知らない
箸蔵街道へ復帰するとここから明確な下り坂となり山肌がザレてくるが「四国の道」だから丸太で整備されている。この辺りからは財田の風景
が眼下に見えて来る。15時37分広場に出るとここまで道路が延びている様だ。箸蔵街道は更に又山筋へと入って行く。この途中に四等三角点
「讃岐財田」があるがうっかりして訪問するのを見過ごしてしまった。(だからして、この三角点は数日後にwくぁざわざ確認に来る事になった)
三角点ピークからショートカットで箸蔵街道に復帰 すこしザレ気味の下り坂
右手は谷部になっている 広場に到着 道はここをクロスして続く
最後のクネクネした下り坂 四等三角点「讃岐財田」 街道のすぐ左手にあった
左手に丸太手すりが延びた急坂を下ると改修中の広い道路に出るとユンボで作業をしていた。作業見張りの人が傍にいるのだがユンボの音が
うるさくて我々に気が付かない。ギリギリまで進んで気づいて貰い作業の横を抜けて下方へ歩いて行くと左カーブ辺りに遍路道の標識があった。
道路から外れるとすぐに箸蔵街道の起点ともいうべき大きな「百丁石」があった。
1丁が108mだからここから箸蔵寺まで 10.8kmって事だ。ここに「四国の道」標識があり二軒茶屋まで 5.5km 讃岐財田駅まで 0.7km
とある。つまり「四国の道」はここから二軒茶屋まで進んで、そこから猪ノ鼻峠へと曲がって行く。 「四国の道」はその先からも財田町の香川用水
記念館近くまで延びているのだ。
道路が見えて来る 工事中の道路
ちょっと風情に欠ける建設機械がある街道案内図 道路を横切って財田駅へと街道は続く
箸蔵街道の起点とも言える 百丁石 二軒茶屋まで5.5kmとある
百丁石まで来るともう箸蔵街道歩きは終わったも同然。のどかな田園風景の下方に見えるタブの木を目指して歩く。なるべく駅に近づく様に
歩いていると讃岐財田駅の真裏に出てしまった。近くに踏み切りは無いので列車の来る音が無いのを確認して線路を横断した。暫くすると遠
くで踏切の警報が鳴って急行列車が通り過ぎて行った。
里に下りて遍路道となる タブの木がある財田駅へ向かう
駅の裏に出たので列車通過に気を付けながら線路を渡る 16時10分 讃岐財田駅の車に帰り着く
(参考)
箸蔵街道歩きに使用可能な朝夕の土讃線列車ダイヤ:(平成27年現在)
先にJRで移動して列車時刻を気にせずにゆっくり街道を戻りながら歩く場合
(箸蔵寺側に車を置く場合) (財田側に車を置く場合)
箸蔵駅発 → 財田駅着 財田駅発 → 箸蔵駅着
0622h ー 0634h 0725h − 0737h
0649h ー 0715h 0938h − 0957h
0811h − 0842h
1047h − 1110h
先に街道を歩いて帰りにJRを使う場合 (便数が少ないのであまりお勧め出来ない)
箸蔵駅発 → 財田駅着 財田駅発 → 箸蔵駅着
1645h − 1658h 1636h − 1655h
1748h − 1801h 1819h − 1838h
1915h − 1942h 1942h − 2001h
歳を取っても長兄とは街道歩きや遍路歩きを一緒に出来て、日本アルプスの縦走歩きを次兄と出来るという元気な体で産んでくれた両親
に感謝。
修一兄の「時空散歩」 箸蔵街道歩き その1は ここ
その2は ここ